「むつ号」はどこに


昭和44年の今日6月12日。日本初の原子力船「むつ」進水。

そして、昭和53年の今日、宮城県沖地震М7・4 死者28人と書いてあります。

「むつ」 が完成した時、私は中学1年生。

原子力というものがどういう物かも知らず「日本もとうとうか」と、妙に誇らしく、
感じたのを思い出します。なにしろ石炭も重油もいらない、燃料の補給が不要で何年も航行出来る。何と素晴らしい技術なんだろうと。
船体の色もそれまでは大体上が黒で、喫水線から下は赤と決まっていたのに今度の新造艦はオレンジ。乗り物好きだった少年はときめいていました。
潜水艦なら何カ月も浮上せず、潜航したまま極秘行動が出来る。

しかしその後、第二の「むつ」が造られる事はなく。記憶のかなたに埋もれてしまいます。あれから幾星霜。もう解体されてしまったのか。にしても核燃料はどう処理されたのか。今更ながら気になります。



原子力という技術はかくもはかなく危ういものだったとはあの頃は知る由もなかった。


はからずも9年後に宮城でМ7,4の地震


ここに地図があります。



原発の所在を表したものです。福島と福井に集中しています。
福島には11基。計画中のものが3基。

福井には13基あり、2基が計画中のようです。
計画は当然白紙になるとは思いますが、・・・






ひとつ疑問がわきます。なぜ千葉県や東京都 神奈川県 大阪府などにないのか。
どうして一か所に幾つもかたまって原子炉を造るのか。

ばらして造れば、今回のような時の被害はもっと押さえられたのに。






答えは単純でした。
このパンレットを書いた不破哲三、元日本共産党書記長の説明です。

つまり、新しく原発を建てるには膨大なお金と用地の買収などに時間がかかる。ならば、ひとところに建てられるだけ建ててしまった方が安上がりだ、ということです。


「危険性」はあるかもしれないがとりあえずそれは置いといて電力の確保が急務だ・・・というふうに
70年代、政府と電力会社はこの地震列島の上に効率と利潤最優先でボンボン建ててきた。そのつけがとうとう明るみになった。


不破氏はこんなエピソードを紹介しています。
ベトナム戦争の時、アメリカが北ベトナムの港湾沖にぎっしりと「機雷」を施設したと。海上封鎖です。




戦争終了後、機雷の除去をすることになった。
機雷というのは、一回触れただけで爆発するものから7回目で爆発するものなどいろんな種類があるんだそうですよ。除去作業は難航。犠牲者も出た。作業チームはしまいには匙を投げ「我々は機雷敷設の専門家だが、除去する技術はもっていない」と言ったのです。


ではどうしたか。
機雷は鉄の船に反応するのでベトナム政府は丸木舟!!を使って、しかも若い女の人達の力で危険な「仕掛け」を外していったそうです・・・・・・・・・。

アメリカは他国に機雷や地雷を撒いて、事が終わればそのまま引き揚げていく
後始末は人任せ。間違って踏んで足を失った民間人の写真はよく目にします。
杖を使って生活する少年。両足を失くして、いざりで移動する少女。・・・・・・・怒りと悲しさと悔しさがこみあげてきます。
結局、「つけ」はそこに住み働いている名もない人々にまわってくる。


原発も同じでは。
原子力発電はいまだ「未完の技術」だったということです。
作ることは出来てもいったん暴走し始めたらコントロール出来ないということが明白になりました。

万一の場合、働くはずの補助電源装置は「地下」に作られていました。
津波が来たら水浸しで使い物にならなくなる事は予想出来たはず。
なぜか、「アメリカ仕様」だったのです。
アメリカに地震はまずありません。地下に作る訳は他でもない「竜巻」対策なんです。確かに竜巻対策なら地下に作るのは有効です。

でも、ここは日本です。
どうしてそんなお粗末な事を・・・・・
高い所に作っていれば被害はもっと少なかったのかもと悔やまれます。


原発本体と一緒の場所に作ってしまったほうが安上がりだし、土地買収も面倒だったのでしょう。






次は恐らく東海地震でしょう。
明日かもしれない、今夜かも。
今できる事、しなければならない事。一日一日が大切です。

トイレの日めくりから、あれやこれや止めどなく思いがこみ上げてきて仕方ありません。