津波と地震と
昨夜に続いて今日の昼間も大きい地震がありましたね。今度は駿河湾。
また来たか・・・
慣れっこになってきている・・・^0^;
そう言えば、岩手牛の出荷が停止になった。
農作物も魚貝類もそうだけど、このままいったら日本の1次産業は壊滅してしまうのではと風評被害も含めてすごく心配です。
で、あの地震以来、政府は何をしてきたかというと
つまるところ
避難の「命令指示」
危険区域の「決定」「指定」
いろんなものの出荷の「規制」「禁止」
立ち入り禁止エリアの「設定」
危険レベル数値の「通知」
放射能レベルの「測定」「調査」・・・
え?だけ?
そんなはずはないんだけど。どうもそれだけって感じがします。
私の住む街もいわゆる「ホットスポット」なるものに「指定」されてしまいました。
放射能だかセシウムだか、「基準値」を超えたそうです。
だからと言って何が出来るわけでもなく。ああそうですか状態。
「もう、どこに逃げても同じだよーん」とか言ってくれた方がなんだか納得する。
こんな資料があります。
「貞観の大津波」と言われる記録です。貞観(じょうがん)11年(869年)7月13日、三陸を大地震と大津波が襲いました。
『陸奥のくにに大きな地震があった。人々は叫び、立っている事が出来ずに地に伏し 或いは家の下敷きになり地割れに落ちた。城郭や倉庫は崩れ落ちた。波が湧きあがりたちまち城下に押し寄せて海から数十百里のところまでやって来た。原野も道も海になり船に乗る暇も山に上る事も出来ず溺れ死ぬ者千ばかり・・・』とあります。素朴ながら生々しい描写です。
この時はマグニチュード8,3。
次に三陸を襲ったのは
「慶長の大津波」1611年(慶長16年) М8,1、死者1万人。
明治に入って「明治の三陸大津波」1896年(明治29年) М8.5 死者2万2千人。
昭和になると、「昭和三陸津波」 1933年(昭和8年)М8.1 死者3千人。
あくまでも「三陸沖」に限定してです。
全国ではこれの何倍何十倍の被害になるのでしょうか。
因みに「関東大震災」1923年(大正12年)はМ7,9 死者10万5千人。
津波被害こそなかったものの、朝食時だったために七輪の火で火事が多発、焼死者がたくさん出た。
貞観に遡るまでもなく
かように
この国には古から地震津波が多発しちゃんと記録も残されている。
なのに、島国であるこの国にしかも海岸線になぜ原発を造ってしまったのか。しかも技術そのものは「地震が無い」アメリカから輸入したと聞きます。
ひとたび暴走が始まったら、人知ではコントロール出来ない核エネルギー。
地震と津波は見に見えるし体感出来るけど放射能はいつどこから来るのかまったくわからない。「基準値」というものもどこまで信頼していいのか。ころころ変わる保安院や原子力委 東電の見解。
今だからこそ言えるのかもしれない。日本が爆走していた科学万能、効率最優先だった70年代にこんな議論はふっとばされてしまったのでしょう。
ここでいったん立ち止まって、これからの日本の行く末をしっかり見つめ直す時です
いつまでも「辞めろ 辞めない」などととやっている場合ではありませんよ。
私はそう思うのですがねえ・・・。